二股口台場の新塹壕なのか
 下の図は岡山藩 水原久の書いた「箱館戦争図」であるが、この図の中に書かれている16個の塹壕が気になっていた。今年5月に埼玉のY氏が箱館戦争の史蹟を調査するため来箱したので、一緒に回る機会があり、色々と回った中で、二股口台場にも行った。
 台場に行って、一般的に古戦場と言われる塹壕を見たのだが、彼に提案して369mのピークの方に行ってみようと誘った。彼も行くと言うので、早速山に登った。道は沢を登り、途中から急な斜面を登り、山の腹を斜めにトラバースした。
 結構な登りだった。出た所が369mのピークの手前の尾根だった。新政府軍が攻めて来た方向の西側は急な斜面になっており、ここを登って攻撃する事は考えられないなと思った。
 頂上方向は深い笹で覆われている。まずは付近をうろうろしてみた。少し台場山の方向に進んだら、塹壕らしき掘られた場所があった。Y氏はこれは塹壕に間違いは無いとの見解だった。
 そこから更に尾根を歩き、終端まで来た所に、長いはっきりした塹壕が見つかった。「これは塹壕だ!」と発見した喜びに浸った。
 何枚も写真を撮りまくった。Y氏は土方歳三や箱館戦争を18年も研究しているが、この塹壕の写真などは見た事が無いと言う。これは凄い発見だったなと思いながら、急斜面も足取り軽く下山した。
岡山藩 水原久 「箱館戦争図」
 家に帰って、そんなに簡単に新しい塹壕なんて見つかるはずが無いだろうと思い。調査する事にした。図書館の検索で、片っ端からキィワードを入力したら、大正13年発行の「北海道史蹟名勝天然記念物調査報告書」と言うのが見つかった。図書館で探して貰ったがなかなか出てこない。しばらく待ってようやく見る事が出来た。
 北海道庁の嘱託の、河野常吉さんの調査報告だった。今から83年も前の調査報告だった。河野さんの名前は覚えていた。旧道を探すとき調べた資料に河野さんの著書があり、参考にした。どちらかと言えば道の専門家と思っていた。多分何処かの官庁を退職されて、道庁に嘱託で勤務したのだろう。
 その報告書には台場山の砲台や塹壕の位置をこの台場山の近くで旅籠を経営していた、前田さんからの聞き取り調査と、実際に自分が現地に行って確認したが、塹壕を5ヶしか発見できなかったとある。
この報告書を見ていくつかの疑問を持った。
1)台場山が今の台場山の位置ではなく、369mのピークを台場山としている。戦争当時には台場山の記述は無く。明治29年の地図には台場下となっている。大正4年の5万分の1の地図では、台場山となっている。当然地図は見ていると思うのだが、何故台場山を369mのピークとしたのだろうか。
2)今回見つけた塹壕は尾根の分かり易い場所にあるのに何故発見出来なかったのだろうか。この塹壕の西の斜面に塹壕が書かれているが、ここは塹壕は造るような場所ではない。
3)現在の台場山古戦場跡の塹壕も1ヶしか発見できないでいる。
4)他の史蹟については写真が載っているのに、台場山は写真が無い。
 以上の事が疑問として残る。
5)図面に書かれた台場山は1800尺(545.4m)と書かれており、現在のピークとは異なっている。当時の地図にも標高は書かれておらず、どこから算出したのだろうか。
ただ、興味あるのは369mのピークに砲台跡があり、深さは90cmで1.8mの半円で、柵を組み土を盛り上げてあると書いてある。今回は行かなかったので確認できなかったが、調査に値するものと考える。
 今回発見した塹壕は、場所的には新政府軍に対して有利な地形の場所にある。すなわち現在ある塹壕を攻める新政府軍は、横の上部から攻撃されるので、かなり不利な条件になる。
 この塹壕に攻め登るには、現在の台場を落とさなければ、攻める事は出来ないだろうし、落としたとしても急斜面を登って行くには、上から攻められ困難を伴うだろう。
 川汲峠で本道から登って九十九折れで上から箱館政府兵に攻められたと同じような状況になるだろう。 
 今回発見した塹壕は上部写真の左側の場所にある。
尾根中央部の塹壕
尾根端の塹壕
尾根端の塹壕

尾根端の塹壕に入った状況

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